紙芝居『はなさか じじい』

紙芝居『はなさか じじい』
文・浜田広介 画・黒崎義介 制作・教育画劇
昭和63年2月10日発行 


先日、紙芝居実演勉強会「メダカの会」定例会で紙芝居『はなさか じじい』を観た。
昔話の花咲かじいさんの紙芝居を実演することも、
「再話」という、ひつの語りの行為といえるのではないかなぁ……と思った。


そこで、紙芝居の裏面に掲載されている、富田博之氏が『花咲爺』の出自に関して書かれているので、掲載しておこう。
ちなみに、富田博之氏は、半世紀にわたって演劇教育運動にすべてを注いできた児童演劇作家、研究家です。


また、富田博之氏が『花咲爺』の出自に関して取り上げた、『燕石雜志(エンセキ ザッシ)』や草双紙(絵本)など、国会図書館デジタルコレクションで検索して見ることができるので、それもリンク先を記しておこう。


〝はなさかじじい〟について        富田博之

 「花咲爺」は「五大おとぎばなし」のそのほかの話と同じように、江戸時代の『燕石雜志(えんせきざっし)』(滝沢馬琴)や『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(喜多村信節)にものっており、草双紙(絵本)には、ほぼ明治以後の国語教科書や、絵本等で、一般に知られているような話として、完成した姿がみられる。しかし、この話もまた、こうして、室町時代から江戸時代にかけて、現在のような組み立てをもつ話として記録される遙か以前から、民話として長い伝承をへてきたものであることはいうまでもない。また、こうして、双紙類によって一つ型がつくられる一方では、各地に、その原型ともいうべき、花咲爺ばなしの、さまざまなバリエーションが、その土地土地の歴史と風土の中にはぐくまれてきたことは、明治以後における民俗学者による民話の採集などからも、はっきりわかることである。

 それにしても、この「花咲爺」は、「五大おとぎばなし」とか。「十大童話」などといわれる、よく知られた昔ばなしの中でも、たいへんすぐれた構成をもっている話といってよいだろう。とくに、幼い子どもたちに与える話としてもっともよく出来ている話の一つだといってよい。

 この脚色では、犬はよそからもらってくるということになっているが、川でひろった桃からうまれるというところからはじまる話も多い。かわいがってそだてていた犬が、「ここほれ、わんわん、ここほれ、わんわん」といって、宝物を教える。となりの爺が犬を殺してしまう。犬の墓の木が大木になって、うすになる。うすから宝物が出る。となりの爺が、うすを割り燃やしてしまう。灰をもらって帰ると、奇蹟が起り、花をさかせる。となりの爺がまねをして失敗、とらえられてしまう。この構成が、まるでよく書かれた戯曲や、交響楽曲のように、美しく、バランスがとれている。「ここほれ、わんわん」というような、動かしがたく単純で、リスムのあることばで組みたてられ、幼い聞き手にぴったりの繰り返しが、たくみに用いられ、お話全体が、音楽のように、ひびき合う構成をもっている。

 この脚色は、幼い子どもたちのための、歌うような、独特の文体をもつ浜田広介氏が、その文体を生かしながら、「花咲爺」のリズムのあるお話の校正にさらに新しい息吹を与えようと、苦心をしているといってよいだろう。

 浜田広介氏については、わが国児童文学界の長老といってもよい存在であることだけをいえば足りよう。

● 草双紙・赤本『枯木に花咲かせ爺』
国立国会図書館デジタルコレクション - 花さきぢゝ老楽の栄花

赤本。題簽に「花さき/ぢゞ/老楽/のゑいぐわ」とあり、「老樂」に「おいれ」と振り仮名があるので、読みは「はなさきじゞおいれのえいが」。題簽の上端中央「ぢゞ」と「老楽」の間に、瓢箪形枠に「ゑ奥村」があり、版元も画工も奥村と解される。内容は「花咲か爺」もので前半を欠き、以下に記すように後半のみが残る。

正直爺婆が碾臼で麦をひくと小判や金銀銭が出る。慳貪爺婆がこれを借りてひくと糞をひき出し怒って壊す。慳貪爺婆は臼を割り囲炉裏にくべる。臼を取りに来た正直爺はせめての事に灰を貰って帰る。正直爺は「枯れ木に花を咲かせませう」と呼び歩き、あるお屋敷で所望される。正直爺はお屋敷の庭の枯れ木の上から灰を撒いて四季の花を咲かせ殿の御意(ぎょい)に入る。慳貪爺は枯れ木に花を咲かせ損ない、殿も家臣も目に灰が入って殴られる。慳貪爺は命からがら我家に帰り、婆に叱られる。正直爺方では灰を入れた笊から金銀銭が湧き出て富貴の身となり祝われる。正直爺が花を咲かせる場面は、絵には満開の桜が描かれるが、咲かせる花は四季の花で「牡丹、芍薬、紅葉葉や菊や芙蓉のしほらしく紅梅、水仙とお目に掛けまする」と言い「霧島、山吹」も所望されている。5丁ものの鱗形屋版『枯木花さかせ親仁』でも四季の花を咲かせ、同系統の感がある。本館本と同内容の作品は大東急記念文庫にあるが、これも前半を欠く。(木村八重子)

参考文献:影印・翻刻『落穂ひろい』上巻。書誌『赤本黒本青本書誌 赤本以前之部』

『嬉遊笑覧』(喜多村信節)巻九 言語 三七三
 花咲せ爺
 (コマ番号207/359)
国立国会図書館デジタルコレクション - 嬉遊笑覧. 下


『花咲かじいさん』
百田宗治 文 清原ひとし 絵 国民図書刊行会

国立国会図書館デジタルコレクション - 花咲かじいさん


大英博物館 Hanasaka no okina, Mukashi-banashi
花咲の翁 昔話
(The Tale of the Old Man who made Cherry Trees Bloom) / Nihon hana zue 日本花図絵
(※上記の太字をコピペして検索してください)


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『人はなぜ語るのか』
5章 新しい語りの創造をめざして

新しい創造として-197頁には

原話を読み解き、自分のものとしてテキスト化し、肉声で語る、その営みの総和を私は、再話だと考えています。昔のことばや表現を機械的に現代語に置き換えるだけでは、私のいう再話の条件を満たしているとはいえません、原話が隠し持つメッセージを読み解いて新しくテキスト化したものを通して、語り手として何を伝えるか、それを効果的に行うためにはどのように語ればよいのか、テキストの肉声化に当っての語り手の役割と関与はどうあるべきかを考え、追求することのトータルが再話という行為であり、なぜ再話なのかの理由の第一です。

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