『聲の形』

映画『聲の形』のレビューで、


「あぁ、このお話ってディスコミュニケーションの物語だったんだな」と気付きました。


ディスコミュニケーション?!
私にとってはじめて知ることばです。
意味を検索し、下記のサイトがヒットしました。
ディスコミュニケーションの定義と理論(2017.1..11検索)


「ディスコミュニケーション」とは和製英語で、おおむね〈意思伝達ができないこと。コミュニケーションが絶たれた状態〉を表わす用語のようです。


しかし、上記のサイトの「ディスコミュニケーションについての新しい定義(提唱)/解説:池田光穂」によれば、

文化人類学者のクリフォード・ギアーツは「厚い記述」という論文の中で、まばたきを例にして、コミュニケーションにおけるメッセージの送受信におけるメッセージの解読過程について有名な議論をおこなっている。


少年がこちらをみて、目配せとしてのウィンクした時には、我々はそれを彼がいたずらを成功して、こちらに合図を送ったものとして解読することもできるし、他方で、ただたんに眼にゴミが入ったということも考えられる。このメッセージを正しく解読し、情報を〈共有〉するためには、メッセージの送り手の少年と、それをみて二通り(あるいはそれ以上の可能性)の解釈をおこなう観察者である私の関係性や、それらがおこなわれた社会的文脈を考慮する必要があるということである。


メッセージは多義的に解釈(解読)される可能性があり、また偶然の現象(眼にゴミが入る)と必然の現象(私と彼の間の関係や出来事がおきた時の状況からそのように判断できる)を、人類学者はさまざまな状況を手がかりに解釈しなければならないのです。それが、ギアーツのいうところの文化の理解にほかなりません。


もしコミュニケーションが文化の理解に関する分析の俎上に乗せることができるのであれば、ディスコミュニケーションもまた(さまざまな理論装置を鍛え直す必要はあるが)研究可能であることを我々に示唆する。


さて、
文化人類学を学ぶような視点で、
『人はなぜ語るのか(叢書文化の伝承と創造)』
Ⅲ章 新しい語りの創造へ-障がいと語り-185頁 を開いてみると


片岡輝は、生前から親交があった竹内敏晴氏の『ことばが劈(ひら)かれるとき』を引用しながら、障がいと語りについて論じています。

 障がい者が社会に認知されるようになってきたのは、二十世紀も半ばを過ぎた頃からで、ノーマライゼーション(正常化)とかインクルーディング(包摂)といった共生の概念がいきわたってきた今日でも、残念ながら健常者と障がい者の間の溝は完全には埋まっていません。

 そして、隣りにいる人との溝に橋を架けるものこそ「語り」だ、と私は信じています。

ぜひ、購読いただきたく思います。
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◆ディスコミュニケーションに関する資料
・『聲の形』 (週刊少年マガジンコミックス)


・『文化の解釈学I』(吉田禎吾他訳)岩波書店
(クリフォード・ギアーツは「厚い記述--文化の解釈学的理論をめざして」を所収)










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